持たないより、支配されない
悪意を持たない人間ではなく、自分の中の悪意を知ったうえで、それに支配されない人間を目指す。
気づいたこと
以前、クレジットカード入りのスマホケースとスマホを盗まれたことがある。 物理的な損失以上に、「悪意」に触れた気がして切なかった。 誰かが自分の意思を無視して大切なものを奪った、という感覚だった。
そこから、悪意とは何かを考えた。 蛇がカエルを食べても、そこに悪意はない。生存のための自然な行動だから。 悪意には、相手に害を与えると認識し、それでも自分の意思で選ぶという要素が要る。 害を与えたことと、悪意があることは同じではないと分かった。
自分の中にも、他人を傷つけたいと思う瞬間や、ルールを破って得したいと思う瞬間があると気づいた。 でも実際には実行しない。思うことと実行することは違う、という区別ができた。 悪意を完全になくすことよりも、悪意を認識しながらそれに支配されないことのほうが、現実的な目標だと思った。
悪意の奥には、欲望や怒り、承認欲求、不公平感がある。仏教でいう貪・瞋・痴、いわゆる三毒に近い。 大事なのは「そんな感情を持ってはいけない」と否定することではなく、 「今、自分の中にこの感情が生まれている」と気づくことだった。
盗難という最初の苦しみのあとに、「あいつは最低だ」「人間なんて信用できない」と考え続けることで、 自分でさらに苦しみを重ねてしまうことがある。仏教でいう「第二の矢」。 最初の矢は避けられなくても、二本目の矢は自分で選べると思った。
行為は否定していい。警察に届けるし、防犯対策もする。 それでも、相手を人間として憎み続ける必要はないと思った。 相手にスマホを盗まれたうえに、自分の心まで持っていかれたくない。 行為は否定する。でも、人間そのものは憎まない。
まとまったこと
- 悪意には「認識」「意図」「選択」の3要素が必要で、蛇の捕食のような本能的な害とは違う
- 悪意を持つことと、悪い人間であることは同じではない。思うことと実行することは別
- 感情は自由。行動には責任を持つ、という区別
- 悪意の奥には欲望・怒り・承認欲求・不公平感がある(仏教でいう貪・瞋・痴)
- 「第二の矢」— 最初の苦しみに、自分でさらに苦しみを重ねない
- 行為は否定する。でも、人間そのものを憎まない
まだ言葉になっていないこと
- 悪意には本当に自由意志が必要なのか
- 「悪意を持つこと」と「悪い人間であること」はどう違うのか
- 自分の中の悪意を観察することで、むしろ自由意志を強くできるのではないか
関連ノート
- 味わうけど、握りしめない
元の対話
- Archive/対話ログ/悪意について考える — 自由意志・欲望・仏教