世界を遮って、内側を立ち上げる
【知的生産】世界を遮って、内側を立ち上げる
一瞬、目の前の世界を遮って、頭の中に別の世界を立ち上げる。
気づいたこと
思い出すとき、過去の出来事をそのまま再生しているというより、今見ている世界が一瞬遮られて、脳の中に何かがパッと立ち上がる感覚があると気づいた。 自分の場合、動画のような連続した映像というよりも、静止画に近いものとして記憶が浮かんでくる。 その画像は鮮明な写真というより「印象」に近く、色や細部までは明確に保存されていないのかもしれないと思った。
思い出した内容は、最初から言葉になっているわけではないとも気づいた。 記憶の印象が頭の中に浮かび、脳の中で形をつくり、それを言語化して、さらに考えを続けるという流れになっているように感じた。 静止画や印象から言葉に変換するとき、頭の中にある感覚そのものと、実際に出てくる言葉との間にズレがあり、もどかしさを感じることがあった。
思い出すときや考えるとき、視線を動かしたり視界から意識を外したりすることがあると気づいた。 目を閉じると、外界から入ってくる情報が減り、頭の中のイメージや思考に意識を向けやすくなる感覚があった。 「思い出すときは左上を見る」というような固定的な話には根拠がないとされていたが、外界への注意を弱めて内側に向ける動きとして捉えると、自分の体感ともつながった。
普段は目の前の世界を見ているが、思い出したり考えたりするときには、一瞬、目の前の世界を遮って、頭の中に別の世界を立ち上げるようなことが起きていると感じた。 そのときに目を閉じたり視線を外したりすると、外界からの情報が減り、内側の世界を扱いやすくなる。
そこから、「思い出す」とは過去をそのまま再生することではなく、断片的な印象を今の脳が再構成することなのかもしれないと考えた。 同じ出来事でも、時間が経ったりそのときの自分の状態が変わったりすれば、思い出し方も変わる可能性があると思った。
まとまったこと
- 「思い出す」は、自分の場合、動画よりも静止画・印象として始まる
- 記憶の印象→頭の中に浮かぶ→形をつくる→言語化する、という流れがあり、印象から言葉に変換するときにもどかしさがある
- 目を閉じたり視線を外したりすることは、外界への注意を弱めて内側の思考に向ける動きとして捉えられる
- 「思い出す」は過去をそのまま再生することではなく、断片的な印象を現在の脳が再構成することなのかもしれない
まだ言葉になっていないこと
- 頭の中に最初に浮かぶ「静止画」は、本当に視覚的な画像なのか、それとも「画像っぽい印象」なのか
- 思い出したときに、実際には存在しない色や細部をどの程度脳が補完しているのか
- 「思い出す」と「想像する」は、どこまで同じ仕組みなのか
- 目を閉じることで考えやすくなるのは、視覚情報が減ることによるものなのか、注意そのものが内側に切り替わるからなのか
関連ノート
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元の対話
- 思い出すという感覚について