How the Brain Works
脳は世界を受け取っていない。
予測し、選択し、作っている。
目が捉えた光がそのまま像になるわけではない。脳はまず「こう見えるはずだ」と予測を立て、感覚器はそのズレだけを返す。私たちが見ている世界は、外にあるものの複製ではなく、脳が作った最ももっともらしい仮説だった。
脳という臓器の全体像から、予測と誤差、記憶の作り直し、そして「私」という感覚が立ち上がるところまでを、順に辿る。
構造
脳という臓器
この先の話に入る前に、いちど部品表を広げておきたい。脳は約1.4キログラム、体重のわずか2%ほどの器官で、豆腐に近いやわらかさをしている。そこに、細胞・部位・ネットワークという三つのスケールが折り重なっている。
細胞 — 電気で走り、化学で渡す
脳にはおよそ1000億個のニューロン(神経細胞)があり、そのひとつひとつが数千から数万の他のニューロンとつながっている。結合の総数は100兆を超えると見積もられている。
ニューロンの中では、信号は電気として走る。だが細胞の末端まで来ると、そこには隙間がある。シナプスと呼ばれるこのわずかな間隙を越えるとき、電気信号はいったん化学物質に姿を変える。放出された神経伝達物質が向かい側の受容体に届き、そこでふたたび電気信号に戻る。走って、渡して、また走る。この受け渡しが脳のすべての活動の土台になっている。
神経伝達物質にはそれぞれ役回りがある。ドーパミンは「予期していたより良かった」という差分を伝え、セロトニンは気分や覚醒の水準を整える。GABAは活動を抑える側にまわり、アセチルコリンは注意と記憶の定着に関わる。感情や意欲と呼ばれるものは、こうした物質の濃度と受け取り側の感度の上に立っている。
部位 — 古い層の上に、新しい層
脳は設計図から一度に作られたのではなく、進化の順に積み重なってきた。生命の維持を担う古い層の上に、情動と記憶の層が乗り、その外側を新皮質が覆っている。内側ほど古く、外側ほど新しい。
ただし、この図は入口であって正確な地図ではない。層が後から足されたというより、脳は全体として進化してきたし、上の層が下の層を支配しているという読み方は、はっきり誤りだ。その話は第5章で扱う。
| 部位 | おもなはたらき |
|---|---|
| 脳幹 | 呼吸・心拍・体温・覚醒。止まれば生命が止まる、いちばん古い層。 |
| 小脳 | 運動の微調整とタイミング。自転車の乗り方のような、言葉にならない記憶。 |
| 視床 | 感覚情報の中継所。嗅覚を除くほぼすべての入力が、ここを通って皮質へ向かう。 |
| 扁桃体 | 情動の警報装置。危険かどうかを、意識が判断するより先に判定する。 |
| 海馬 | 新しい出来事の記憶をつくり、索引をつける。場所の記憶にも関わる。 |
| 前頭葉 | 計画・抑制・意思決定。とくに前頭前野は、いま必要ないものを抑える役をもつ。 |
| 頭頂葉 | 空間の把握と身体の感覚。自分の体がどこにあるかを組み立てる。 |
| 側頭葉 | 聴覚、言語の理解、物体の認識。海馬と隣り合い、記憶とも近い。 |
| 後頭葉 | 視覚。色・形・動き・奥行きを、別々の領域で並行して処理する。 |
ネットワーク — 部位ではなく、つながり
部位と役割の対応は入口としては便利だが、そこで止まると見誤る。実際の機能は、離れた領域どうしの結合パターンから生まれている。同じ部位が、どのネットワークの一部として動いているかで違う仕事をする。
よく知られた三つ組がある。課題に集中しているときに立ち上がる実行系ネットワーク、何もしていないときに活発になるデフォルト・モード・ネットワーク、そしてその二つを切り替えるサリエンス・ネットワーク。サリエンスは「いま注意を向けるに値するものが現れたか」を見張る役で、これは後で出てくる誤差の話と地続きになる。
代謝と可塑性 — 使われた線が、残る
脳は体重の2%ほどしかないのに、全エネルギーの約20%を消費する。しかもその大半は、何か特別な作業をしているときではなく、常時の維持活動に使われている。脳に「休んでいる状態」はない。
そして脳は配線が固定された機械ではない。使われたシナプスは強まり、使われないシナプスは刈り込まれていく。経験が回路そのものを書き換えるこの性質を可塑性という。今日くり返したことが、明日の脳の形を少しだけ変えている。
ここまでを並べると、脳は役割を分担する精巧な機械のように見える。しかし実際に起きていることは、もっと奇妙だった。
予測
脳は誤差だけを見ている
知能とは何か、と問われると、つい知識の量を思い浮かべる。だが脳のやっていることを見ると、そうではないらしい。世界の構造を学習してモデルを作り、そのモデルで次を予測し、予測にもとづいて行動し、外れた分でモデルを更新する。この世界モデルのループこそが、知能の本体に近い。
脳はカメラのように外の世界を写し取っている——直感的にはそう思いたくなる。実際の仕組みは、ほとんど逆だった。
脳はつねに「次に何が起こるか」「何が見えるはずか」を過去の経験から予測し、自前でシミュレーションを走らせている。目や耳から入ってくる情報は、その予測を丸ごと置き換えるのではない。予測と現実のズレだけが上へ報告され、予測の修正に使われる。予測が当たっているかぎり、感覚からの信号はほとんど上がってこない。この考え方は予測符号化、より大きな枠組みでは自由エネルギー原理と呼ばれている。
この仕組みがあるから、私たちは雑踏の中でも知人の声を聞き分けられるし、半分隠れた物体を全体として認識できる。足りない部分は、予測が埋めている。処理すべき情報量も劇的に減る。すべてを毎回ゼロから見ていたら、脳は追いつかない。
同時にこれは、思い込みや偏見がなぜ生じるかの説明にもなっている。予測が強すぎると、感覚入力よりも予測のほうが優先されてしまう。錯視はその極端な例で、目に届いている光は同じなのに、文脈が変われば見え方が変わる。私たちは、自分が見たいように世界を見ている——その科学的な裏づけがここにある。
どの情報をどれだけ信頼するか、という重みづけのバランスが崩れた状態として、いくつかの精神疾患を説明しようとする研究もある。逆に言えば、予測は書き換えられる余地があるということでもある。思い込みを検証して更新していく認知行動療法のアプローチは、この層に働きかけている。
残る問い
- 「意識」や「私」という感覚も、予測誤差を最小化するための仕組みが生んだ副産物なのだろうか。
- 自分の脳が立てている予測に、どこまで自分で気づき、意図的に書き換えられるのか。
選択
見ているのは、選ばれた世界
人間の視野は両目で200度近くあり、感覚としては魚眼レンズに近い広さを捉えている。ところが実際に意識を向けてフォーカスしている範囲は、はるかに狭い。標準レンズ一本ぶんくらいの幅しか、はっきりとは見ていない。
視野に入っている情報、意識が向いている情報、そして記憶として残る情報。この三つは同じではなく、後になるほど狭くなっていく。
では何が選ばれるのか。危険そうなもの、いま自分の目的に関係するもの、予測から外れた意外なもの、感情が動いたもの。優先順位の先頭に並ぶのはそのあたりで、これは前章の誤差の話とそのままつながっている。予測どおりのものは、わざわざ意識に上げる必要がない。
この絞り込みは、能力の不足ではなく最適化と考えたほうがいい。もし世界のあらゆる情報を同じ解像度で知覚できてしまったら、脳は処理しきれず、正常な状態を保てなくなるだろう。人間の知覚には、うまく効いている限界がある。
そして限界の形は生き物ごとに違う。犬は匂いの世界に、コウモリは反響の世界に住んでいる。機械はさらに別で、カメラにLiDARや赤外線やミリ波レーダーを足した知覚は、人間の視覚を高性能にしたものというより、まったく別の知覚システムと考えたほうが面白い。
残る問い
- 私たちが見ているのは「世界」なのか、それとも脳が選択して構成した世界なのか。
- 人間が知覚できない情報には何があり、他の生物にはどんな世界が見えているのか。
- 機械が人間を超えた知覚を持ったとき、その機械にとって世界はどう立ち上がるのか。
再構成
思い出すとは、作り直すこと
何かを思い出すとき、頭の中で何が起きているのか。自分の体感を観察してみると、過去の映像が再生されるというより、いま見ている世界が一瞬さえぎられて、別のものが立ち上がる感覚に近い。
浮かんでくるのは動画ではなく、静止画に近い。しかも鮮明な写真ではなく「印象」に近い。色や細部は、たぶん保存されていない。そして最初から言葉にはなっていない。印象が浮かび、形をつくり、そこから言語化する。この変換のところで、頭の中にある感覚と実際に出てくる言葉とのあいだにズレが生まれ、もどかしさが残る。
思い出すときに目を閉じたり視線を外したりするのは、外界からの入力を減らして、内側のイメージを扱いやすくする動きだと考えると腑に落ちる。「思い出すときは左上を見る」といった固定的な話に根拠はないが、注意を外から内へ切り替える動作そのものは実感とつながる。
過去の体験は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚、そしてそのときの感情が組み合わさって残っているらしい。能動的に探しにいくときは視覚的なイメージが比較的取り出しやすく、声や物音も「聞こえた気がする」という形で蘇ることがある。
不思議なのは嗅覚だ。匂いそのものを思い出そうとしても、ほとんど出てこない。ところが実際にその香りを嗅ぐと、突然その頃の記憶が立ち上がる。ここには構造的な理由がある。ほかの感覚が視床という中継所を経由して皮質へ向かうのに対し、嗅覚だけは視床を通らず、扁桃体や海馬へほぼ直接つながっている。情動と記憶に、近道で届いてしまう。
自分から記憶を探しにいく場合と、感覚をきっかけに呼び起こされる場合とでは、体験の仕方がまるで違う。前者は組み立てる作業で、後者は不意に立ち上がるものだ。
残る問い
- 最初に浮かぶ「静止画」は、本当に視覚的な画像なのか、それとも画像のような印象なのか。
- 思い出すときに、実際には存在しない色や細部を、脳はどれだけ補っているのか。
- 「思い出す」と「想像する」は、どこまで同じ仕組みなのか。
統合
理性の脳は、なかった
新皮質、とりわけ前頭前野が大きくなったことで、計画・抑制・柔軟な思考・注意・文脈理解といった人間らしい能力が生まれた。ここまでは、よく語られるとおりだ。
そこから自然に、こんな見取り図が浮かぶ。扁桃体のような古い領域が本能や感情を生み、その上に乗った新皮質がそれを制御している——理性が感情を統べる二層構造。分かりやすいが、この図は正確ではない。
感情と認知は分離していない。相互に影響し合っている。新皮質は感情を支配する司令塔ではなく、感覚・記憶・情動といった情報を統合し、状況に応じて行動を調整するネットワークの一部として働いている。判断のたびに情動は参照されているし、情動の側も文脈の解釈によって形を変える。
進化についても同じことが言える。新皮質は単純に大きくなったのではない。連合野の発達や、領域どうしのつながりのほうが重要だった。「脳が大きくなった」というより「複雑な情報を統合し、調整する能力が高度化した」と捉えるほうが近い。
部位に役割の名札を貼っていく見方は、入口としては有効だが、そこで止まると本体を取り逃がす。脳でいちばん効いているのは、部品ではなく配線のほうだった。
感情は、意味をつける
感情を「合理的な判断を邪魔するもの」と見るのは、二層構造の見取り図の名残でもある。別の捉え方ができる。感情とは、起きていることが自分にとってどういう意味を持つかを評価する仕組みだ、という見方だ。
安全だと予測していたのに、実際には危険だった。この誤差が身体の反応を引き起こし、それが恐怖として経験され、注意の向け先と次の行動が変わる。第2章の予測と誤差の話が、身体を通って意味に変換されている。
残る問い
- 電気信号と神経伝達物質のやり取りしかない脳から、なぜ「私は今ここにいる」という主観的な体験が生まれるのか。
- 統合と調整の能力が高度化した先に、なぜ経験するという出来事が現れるのか。
並列
千の脳と、座標系
脳の中に小さなスクリーンがあって、そこに世界の映像が映っている——そういうことではない。色・形・動き・奥行きはそれぞれ別の領域で並行して処理され、その活動の全体として「この場所にこの物体がある」という状態が成立している。どこか一箇所で最後に合成される中央のステージは、見つかっていない。
この方向をさらに押し進めたのが千の脳理論だ。脳はひとつの巨大な世界モデルを持つのではなく、多数の皮質コラムがそれぞれに世界のモデルを作り、それらが協調して結論を出している、という考え方をとる。
印象的なのは、モデルの中身が特徴のリストではないという点だ。「カップ」を認識するとき、脳は丸い・取っ手があるといった特徴を並べているのではなく、取っ手がカップのどこにあるかという構造・位置関係までを座標系として持っている。だから角度が変わっても、一部が隠れても、同じものだと分かる。
ここで「座標系」という言葉を、数学のx・y・zより広く取りたい。要は何を基準にして位置を表すか、つまり参照枠のことだ。「コップは自分の右にある」「机の右端にコップがある」「コップの取っ手は右を向いている」——この三つは、それぞれ違う参照枠を使っている。脳は対象ごとに複数の枠を持ち、必要に応じて使い分けている。
ただし、ここで一度立ち止まったほうがいい。座標系があれば自己認識が生まれる、とは言えない。地図には座標がある。しかし地図は、自分がどこにいるかを知らない。世界を表現するだけなら、自分は要らないのだ。
もうひとつ、避けておきたい誤りがある。「自分を認識する自分が脳の中にいる」と考えると、ではその自分を見ているのは誰か、と無限に後退してしまう。脳の中に小さな観察者はいない。起きているのは、自分自身の状態についての高次の表現が成り立っている、ということだと考えたほうがいい。
残る問い
- 並列に走る多数のモデルは、どうやって一つの結論にまとまるのか。
- 参照枠を切り替えているとき、脳の中では何が起きているのか。
位置
「ここ」と「今」
地図に自分は要らない。しかし生きものは事情が違う。身体を持っているからだ。
自分がどこにいるか。身体がどう動くか。動いた結果、世界がどう変わるか。これを絶えず予測していないと、身体は使えない。すると世界モデルの中に、自分の身体・位置・できることを含めざるをえなくなる。自己モデルは、哲学的な要請ではなく、身体を動かすための実務的な必要から出てくる。
空間だけではない。時間についても同じことが起きている。人間は過去・現在・未来という構造を持っているが、その「現在」は数学的な一点ではないらしい。直前までの記憶と、いまの感覚と、直後に起こりそうなこと。これらを統合した、ある程度の幅として経験されている。
並べてみると、こういう構造になる。空間モデルが「私はここにいる」を与える。時間モデルがそこに「私は今ここにいる」を足す。記憶が「私は過去にも存在した」を、未来予測が「私はこれからも続いていく」を足す。
脳は外界だけをモデル化しているわけではなかった。自分の身体、感情、記憶、過去の自分、これからの自分も、同じようにモデル化している。その総体として「私はここにいる」という感覚が成立している可能性がある。
残る問い
- 「今」の幅は、どこからどこまでなのか。何がその幅を決めているのか。
- 身体を持たないものにも、自己モデルは要請されるのか。
連続
自分をつないでいるもの
ここで二つを分けておきたい。自己モデルは「これは自分の身体だ」「自分はここにいる」「自分はこれを動かせる」という、自分についての表現のこと。自己同一性は「昨日の自分も自分だった」「明日の自分も今の続きだ」という、変化する自分を同じ自分としてつなぐ仕組みのこと。前者は自分が何であるかのモデルで、後者はそれを時間の中で接続する働きだ。
では、何がつないでいるのか。身体は入れ替わる。記憶は書き換わる。価値観も、感情も、考え方も変わっていく。それでも自分は連続していると感じる。
だとすれば、自分は固定された物ではなく、変化し続ける要素を統合して維持されているパターンなのではないか。渦に近い。水そのものは常に入れ替わっているのに、渦というかたちは一定のあいだ保たれる。
この見方は、原始仏教の無我と構造的に響き合う部分がある。ただし「脳科学は仏教と同じことを言っている」とまでは言えない。共通しているのは、固定的で永続的な自己の実体を仮定しなくても自己を説明できる可能性がある、という一点にとどめておきたい。
意思決定も、この枠の中で考えられる。過去の経験、いまの身体状態、感情、価値観、予測、社会環境——それらが統合されて選択が出てくる。因果から完全に独立した絶対的な自由意志があるかどうかは、また別の問題だ。しかし、自分の価値観と目標を使って未来を予測し、複数の選択肢から選ぶという意味での機能的な自由意志は、十分に意味を持つ。すべてが原因によって決まっているなら意思決定に意味がない、とはならない。
最後にもうひとつ、分けておきたいことがある。仮に「私が音楽を聴いている」という自己認識が薄くなっても、音が聞こえる・気持ちいいという体験そのものは残るのではないか。だとすれば、「私」という感覚と、体験そのものは、同じではない。自己モデルがあることと、意識があることは、切り分けて考えたほうがいい。
残る問い
- 記憶が失われたら、それは同じ自分なのか。身体が変わったら。価値観が大きく変わったら。
- 自己への同一化を弱めることと、自己モデルを持つことは、両立するのか。
- 「自己はプロセス」という見方は、縁起の考え方とどこまで重なるのか。
空白
何もしない時間が、整理している
作業に集中しているときより、ぼんやりしているときに活発になる脳のネットワークがある。デフォルト・モード・ネットワーク——第1章で出てきたDMNだ。安静時に立ち上がり、脳の消費エネルギーのかなりの割合を占める。何もしていない時間の脳は、休んでいるのではなかった。
DMNが働いているとき、脳は過去の記憶を整理し、未来の出来事をシミュレーションし、自分と他者の関係を俯瞰している。シャワーを浴びているときや散歩の途中に急にアイデアが浮かぶのは、この時間にばらばらだった情報が結び直されているからだと考えられている。
問題は、現代の環境がこの空白を奪いやすいことだ。スマホとSNSによって外からの入力が途切れなくなると、DMNが立ち上がる余白が消える。整理と結び直しの時間が確保できない。
逆に、DMNが過剰に回りすぎるのも具合が悪い。過去への後悔と未来への不安のあいだをぐるぐる回る反芻思考は、このネットワークの活動が止まらなくなった状態として説明される。うつのリスクとも関連が指摘されている。
つまり必要なのは、集中とぼんやりのどちらか一方ではなく、その切り替えが効くことだ。マインドフルネスの瞑想が過剰なDMNの活動を鎮めるとされるのは、この切り替えの側に働きかけているからだと考えられる。
残る問い
- 「意識」は、DMNの働きとどう関係しているのか。
- 情報が途切れない時代に、空白をどう設計すれば、DMNは適切に働くのか。
未知
残っている問い
ここまでの話は、脳が何をどう処理しているかについてのものだった。予測し、選択し、構成し、作り直し、その中に自分自身も置く。この情報処理の側は、かなりの解像度で分かってきている。
分かっていないのは、そこから先だ。なぜその神経活動が「赤く感じる」という主観的な体験になるのか。情報処理の仕組みと、経験されるということは、別の問題として立っている。これは意識のハードプロブレムと呼ばれていて、今のところ手がかりも定まっていない。グローバル・ワークスペース理論、統合情報理論、予測処理、千の脳理論——理論はいくつもあるが、どれも知覚や知能のモデル化を説明するもので、意識そのものを説明しきってはいない。そこは正直に空けておいたほうがいい。
脳を構成する物質をミクロに辿っていけば、いずれ量子力学の世界に行き着く。マクロには脳・身体・自分・他者・世界という豊かな現実がある。そのあいだをどうつなぐのか。意識と量子現象を直接結びつける仮説もあるが、確かめられてはいない。ここは、不思議なものとして一旦そのまま置いておくことにする。
もうひとつ、新しい問いも増えた。AIも、内部で何かが起きてから言葉として出力される。外から見た構造は、人間の「思いついた瞬間にはもう口から出ている」という体感と、少し似ている。ただし構造が似ていることと、内側で何かが経験されていることは、まったく別の問題だ。その二つを混ぜないでおくことが、たぶんいまは一番大事なところだと思う。
そして、自己がパターンなのだとしたら、当然こう考えたくなる。そのパターンを別の場所に写せるのではないか、と。記録・知識・文章ならかなり写せる。思考の癖や価値観や判断の傾向も、相当なところまで再現できるかもしれない。写せないのは最後の一段、「これは私の体験である」という部分だ。
ここに厄介な思考実験がある。仮に完全な写しを二つ作れたとして、そのどちらもが「私が元の自分だ」と言う。そして写された瞬間から別々の経験を重ね、別々の存在になっていく。つまり情報として同じであることと、主観として同じ私であることは、別のことだ。自分をどこかに写せば生き続けられる、と単純には言えない理由がここにある。
だとすれば、いま現実的に手が届くのは、自分をコピーすることではなく、自分の世界モデル——経験・知識・価値観・判断の理由——を外に出して、更新し続けられるようにしておくことのほうだろう。それは自分の代わりではなく、自分を映して問い返す鏡に近い。この話は、いずれ別のページで。
自分が見ている世界は、自分の脳が作っている。
その世界の中に自分を置いているのも、同じ脳だった。